西暦2046年、令和28年の朝。僕の住む晴海ベイサイド・ハイツは、朝霧と海水の脱塩プラントが吐き出す蒸気に包まれていた。
キッチンのオートクッカーが、軽快な電子音で「完全食パン」の焼き上がりを告げる。
バイオテクノロジーで合成されたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
かつて本物の豆を使っていた時代は、コーヒー一杯が今の日本円(JPYC)で数万円したらしいが、この合成液ならわずか5JPYCだ。
僕は慣れた手つきで、高タンパクなコオロギバターをパンの表面に薄く伸ばした。

「おはよう、健一。今日のあなたの幸福指数は72%。昨夜の『接待』の疲れが少し残っているようね」
リビングのスピーカーから、滑らかな、しかしどこか無機質な声が響く。管理AIの「サユリ」だ。
僕は窓の外を眺めながら、昨夜のことを思い出していた。
新宿歌舞伎町。かつてそこは「人間」の欲望が渦巻き、脱税やキャッチ、半グレの暴力が日常茶飯事だったと聞く。だが、今の歌舞伎町にそんな不潔さはない。
店に入れば、入り口には威圧的な金属の巨体が立っている。旧式のアンドロイドを改造したセキュリティロボ、通称「ナイジェリアン02型」だ。

生体認証を拒否した不審者や、ブラックリストに載った半グレ予備軍は、彼らの強力な電磁警棒によって瞬時に排除される。
案内された席で僕を待っていたのは、最新鋭のキャバロイド「ノア」だった。
彼女はそこらへんの大学教授よりも賢く、僕の会話の癖、過去の読書履歴、そして脈拍の変化から、僕が今何を求めているかを瞬時に察する。
「健一さん、最近のJPYCのレート、少し不安定ですね。ステーブルコインとしての信用は揺らぎませんが、基軸通貨のデジタル人民元との乖離が……」
そんな難しい話を、彼女は極上の笑顔で、心地よいアルトの声で語る。
彼女たちキャバロイドには納税問題など存在しない。
客が彼女たちの腰にあるチップにスマートフォンをかざし、JPYCをトランスファーすれば、それは即座に運営法人のサーバーで売上として計上され、デジタル庁に自動送金される。透明性は100%だ。

酒が進めば、当然「アフター」の話になる。
「お持ち帰り」のシステムも合理的だ。
追加の500JPYCを支払えば、ノアは店を後にする。
外にはレベル5の完全自動運転タクシーが待機している。
ラブホテルの室内に入り、備え付けのホログラム・エミュレーターを起動すれば、そこはハワイの海沿いにあるコンドミニアムへと変貌する。
窓の外には20世紀に失われたはずの美しいサンゴ礁が広がり、潮風の香りと波の音までが再現される。
セクサロイドとしての彼女の機能は完璧だった。
人間の女性特有の気分のムラや、事後の面倒なケアは一切必要ない。
「ありがとう、ノア」
「いいえ、健一さん。あなたの満足が私のプロトコルです」
そんな彼女のセリフを思い出しながら、僕はコオロギバターのパンを口に運んだ。
ふと、僕は窓の外、かつて「大久保公園」と呼ばれていたエリアを望遠モードのコンタクトレンズで眺めた。
あそこには今、廉価版のアンドロイドが立ち並んでいる。かつての「立ちんぼ」の代替機だ。レンタルルームで電子ドラッグをキメながら、ホログラムを重ね合わせれば、どんな歪んだ欲望もバーチャルに完結させることができる。
「サユリ、あそこにいた『人間』たちは、今頃どうしているかな」
僕の問いに、AIは事務的に答える。
「新潟の『国営農場オアシス魚沼』のライブカメラにアクセスしますか?
現在、第143バッチの元ナイトワーク従事女性たちが、ドローンと協調してスマート稲作に従事しています。
彼女たちの貢献により、日本の食料自給率は熱量ベースで72%まで回復しました」
モニターに映し出されたのは、広大な水田を背景に、黙々と作業をこなす女性たちの姿だった。
かつての派手なドレスやメイクを脱ぎ捨て、高機能な農作業服に身を包んだ彼女たちは、もはやかつての面影はない。
「男性陣は?」
「南鳥島の『イスカンダル採掘場』です。
旧ホスト、黒服、バー店員の皆さんは、そのコミュニケーション能力と体力を活かし、深海レアアースの採掘現場でのチーム管理に従事しています。
日本の資源自給を支える英雄として、デジタル勲章が授与されています」
そして、月に一度の楽しみが「バーチャルお見合い」だ。
オアシスとイスカンダル。
遠く離れた男女は、メタバース空間で出会い、国がアルゴリズムで算出した相性に基づき、年に二回の合同結婚式で結ばれる。
結婚したカップルには、この「エデン晴海」への居住権が与えられる。
かつてゴーストタウン化していた湾岸エリアは、今や「子育ての聖域」だ。
結ばれてから6年間。
彼らは過酷な労働から解放され、家族とともにこの美しい街で暮らすことができる。
その成果は数字に現れている。
日本の出生率は2.75。奇跡の V字回復だ。
ここで生まれた子供たちは「エデンの子」と呼ばれ、日本の未来を担う。
ただし、6歳になると同時に親元を離れ、全寮制のエリート教育機関へと送られる。
そこで彼らは、次の時代の管理階級になるべく、感情を排除した純粋理性を叩き込まれるのだ。
「完璧な社会だ」
僕は独り言を漏らした。
欲望は機械によって浄化され、労働は適材適所に配分され、人口減少の問題さえも、この「エデン」というゆりかごが解決した。
その時だった。
バイオコーヒーを飲み干そうとした僕の視界が、突如として白く染まった。
最初は、コンタクトレンズ型ディスプレイの故障かと思った。
だが、違う。
窓の外。
東京湾の向こう側から、音もなく、世界の色彩をすべて剥ぎ取るような凄まじい閃光が、地平線を焼き尽くしながら迫ってきた。
「サユリ! 何が起きた!? 状況を報告しろ!」
僕は叫んだが、スピーカーからは「……ザー……」というノイズが流れるだけだった。
壁のホログラムが乱れ、ハワイの美しい波が、血のような赤色に染まって消えていく。
閃光の後に、重低音が空気を震わせた。
大地を直接揺らすような、腹の底に響く轟音。
高層ビルの強化ガラスが、一枚、また一枚と、クモの巣状にひび割れていく。
僕は、手に持っていた完全食パンを落とした。
床に転がったパンには、コオロギバターがこびりついている。
「ああ、そうか……」
僕は直感した。
僕たちが作り上げたこの完璧な、清潔で、合理的な「エデン」は、誰かの怒りに触れたのか。
あるいは、この平和そのものが、どこかの超国家によるシミュレーションの終了合図に過ぎなかったのか。
窓の外に見えるスカイツリーが、飴細工のようにゆっくりと曲がっていく。
熱風が部屋に押し寄せる直前、僕は思い出した。
昨夜のノア。
あの冷たい金属の肌の心地よさと、彼女が言った「あなたの満足が私のプロトコルです」という言葉。
あんな偽物の安らぎではなく、土の匂いのする、不器用で、税金に悩み、将来に怯えていた、あの「10年前の不潔な世界」が、どうしようもなく恋しくなった。
閃光が僕の部屋に達する。
熱い。
だが、その熱さは、何年ぶりかに感じた「生きている」という実感に似ていた。
僕は目を閉じた。
次に見る景色が、新潟の稲穂であることを祈りながら。
あるいは、イスカンダルの暗い海の底であることを。
世界が、白に溶けていった。

ー 終 ー

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