弥生時代の財宝?出土した貨泉が語る古代日本と中国の秘密

日常
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先日フリマサイトで購入した日本貨幣一覧ですが、

今回は貨泉(かせん)についてです。

この貨幣ですね。

日本の古代史を紐解く上で、貨泉は重要な手がかりとなる貨幣です。

特に北部九州地方で出土する貨泉は、弥生時代の遺跡の年代を測定するための一つの基準として、考古学の研究において大きな役割を果たしています。

貨泉とは?

貨泉は、中国の新(紀元8年~23年)という短命な王朝の時代に鋳造された貨幣です。

この新の時代は前漢と後漢の間に存在し、わずか15年しか続かなかったため、その時代に鋳造された貨幣は極めて特定しやすく、年代を特定するための手がかりとして重宝されています。

貨泉自体は弥生時代の日本で使われたものではなく、中国の貨幣ですが、それが北部九州地方を中心とした遺跡から出土することから、当時の日本と中国の交易や文化的な交流の存在を示唆しています。

貨泉が出土することにより、その遺跡の年代をある程度特定できるため、考古学者たちは他の出土品と照らし合わせながら、当時の生活や交易の様子を復元してきました。

貨泉の歴史的背景

貨泉が鋳造された新の時代は、中国にとっても激動の時代でした。

新の皇帝である王莽(おうもう)は改革を試み、多くの新しい政策を打ち出しました。

その一環として、貨幣制度の変更が行われ、新しい貨幣として貨泉が発行されました。

この改革は、経済の安定を図るためでしたが、王莽の改革自体がうまくいかず、結果として新王朝は短命に終わり、後漢が再び中国を統治することになります。

この短期間に鋳造された貨泉は、王莽時代の象徴的な遺物の一つです。

そして、その貨泉が日本の弥生時代の遺跡から見つかるということは、日本が当時、どのように中国とつながりを持っていたのかを理解するための重要な手がかりとなっています。

北部九州と貨泉

北部九州地方は、古代から大陸との交易が盛んだった地域として知られています。

弥生時代の中期後半から後期にかけて、この地域からは多くの中国の遺物が出土しており、特に貨泉が発見されたことで、当時の日本がどのように中国と交流していたのかが明らかになっています。

弥生時代の北部九州は、稲作が発展し、人口が増加した地域でもありました。

特に、甕棺墓(かめかんぼ)と呼ばれる大型の甕に遺体を埋葬する習慣が広がっていたことが知られています。

この甕棺墓からは貨泉が副葬品として見つかることがあり、これがその遺跡の年代を測るための手がかりとして用いられるのです。

甕棺墓に副葬されていた貨泉は、単なる貨幣としての役割だけでなく、何らかの宗教的、あるいは象徴的な意味を持っていたと考えられています。

つまり、貨泉は当時の人々にとって、単なる物質的な価値以上の何かを象徴していたのかもしれません。

年代特定の手がかりとしての貨泉

考古学において、遺跡から出土する遺物を用いてその遺跡の年代を特定することは非常に重要です。

貨泉は、その鋳造時期が非常に限定されているため、遺跡の年代を測定するための有力な手がかりとなります。

特に、貨泉が出土する遺跡は弥生時代の中期後半から後期にかけてのものが多く、その時代に北部九州でどのような文化や社会が形成されていたのかを知る上で、重要な役割を果たしています。

考古学者たちは、貨泉の出土状況をもとに、他の出土品、例えば土器や副葬品と照らし合わせながら、その遺跡の年代を特定してきました。

特に、土器の形式や形状は、その地域や時代によって変化するため、貨泉と一緒に出土した土器の分析を行うことで、より精度の高い年代測定が可能になります。

まとめ

貨泉は、中国の新の時代に鋳造された貨幣であり、北部九州の弥生時代の遺跡から多く出土しています。

この貨泉は、その鋳造時期が非常に限定されているため、遺跡の年代を特定するための重要な手がかりとなります。

また、貨泉の存在は、当時の日本と中国の交易や文化的交流を示す重要な証拠でもあります。

甕棺墓から出土した貨泉は、単なる貨幣としての役割だけでなく、宗教的、象徴的な意味を持っていた可能性もあり、当時の人々にとっては非常に価値のあるものであったと考えられます。

こうした貨泉の出土状況や、他の遺物との組み合わせにより、弥生時代の社会や文化、そして中国との関わりが少しずつ明らかになってきました。

貨泉は、単なる貨幣ではなく、歴史を紐解くための重要な鍵となる存在なのです。

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